マイノリティアートって、けっこうメジャーなフレーズっぽい

当サイト名は、映画「マイノリティ・リポート」をもじったの。

直訳すると「例外的な報告」

「何を考えているかわからない」「突拍子な事ばかりする」「疲れる」とか散々言われた人生。「変人」が大体の代名詞だった。というか現在進行系。

別に奇を狙ってやってる訳でもないから尚更、質(たち)が悪い。

だから、自分は「例外」なんだなと。そんな僕から見たら、「必然的に奇を狙う人」は、マイノリティでもないし、そこから産まれるもの(芸術とか)も「マイノリティアート」じゃないと思うんだ。というか、個性も何もない、中身空っぽの芸術だよ。幼稚園児が素直に描く絵の方がいいんじゃないかな。。なんて。言い過ぎたw

僕が今まで出会った「マイノリティ」と呼ぶべき人は、「何か」に強い拘(こだわ)りを持っていた。僕は、幼少の頃から「目」に拘りがあって、よく目の絵を描いていた。今は、オリジナルの絵は必ずといっていいほど「目」が描かれていて、描かないと落ち着かない。

でも逆に写真の方は初期だけど、「目を逸らす」場面ばかり撮っていた。

 前に偶然、僕のブログ(閉鎖済)を見ていた人とカメラの勉強会で会った時に聞かれたの。「毎日、チェックしてたんだけど、なんで目を逸らす場面しか撮らないの?」
そう聞かれて、自分でも分からなくて、あえてモデルと向き合う写真を撮るようになった。この辺から「マイノリティ」じゃなくなったんじゃないかなって思うんだけど、それでも、どうやら周り(美大系)からみたらマイノリティらしい。

「類は友を呼ぶ」っていうよね。偶然出会う人は美大系(中でもトップクラス)が多かった。そして、「目」に拘る人も多かった。でも結局、みんな芸術とは違う職についた。それでも、グラフィックとか出版関係はいたけど、「芸術」の部類とは呼べないんじゃないかな。
本来の「マイノリティアート」は、「多くの人に認められない芸術」だからこそ「例外」な訳だ。映画「マイノリティ・リポート」だって、信じたのはトム・クルーズだけだったじゃん。実証後に周りが信じたけど、芸術に「実証」はない。見る側の「心」が決める事で、「数学的な証明」は出来ないないから。

もし世界的に評価されたら、もう僕も「マイノリティ」ではなくなる。そうなったら、このサイト名も変えないと。。って絶対、あり得ないけど。
だって、人生が証明してるもん。「この人はこういう人」って思って付き合ってくれた女性や友達はいただろうけど、「理由」を知る人はいなかったと思う。

まぁ、僕も自分の事がよくわからない。

てことで、本当の「マイノリティアート」に出会う為には、美術館巡りしても出会えないよ。ネットでも出会うの難しいと思うし、出会っても「ありきたり」だとか「下手だなぁ」とか「子供っぽいな」って思って理解しがたいと思う。

出会う事が大切だとも思わないよ。結局、「自分が好きなもの」が一番いいと思う。評価されていないものでもメジャーなものでも。

かくゆう僕もクラシックだと、「kanon」が好きだよ。チェロとヴァイオリンの4重奏が好き。エヴァンゲリオンで流れるあれがいい。涙が出る程好き。

悲しく切なくなって、「昔の彼女を思い出して書いたのかな」って感想が、周りの人と違うみたいだけど。

撮影,デッサン&記事:Tatsuya

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